グリム童話「ハーメルンの笛吹き男」は史実に基づいた話としても有名です。
1284年とかなり昔の出来事で
当時の資料もなく、真相解明は非常に難しいというのが現状のようですね。
今回はこの物語のあらすじを簡単に見て、
実話となる原作は何か、真相はどのように考えられているかをまとめてみました。
ハーメルンの笛吹き男:あらすじ
時は1284年。
ハーメルンの町はネズミがばらまく疫病で困っていた。
そこにカラフルなコートを着た男が現れ、
報酬を約束してくれれば、
私がネズミを全部駆除するがどうだ?
というので、住民はその男に頼んだ。
その男は笛を取り出し吹き始めると、
ネズミが家々から出て来て彼の周りに集まってくる。
「もう、いいかな」
男は笛を吹きながらヴェーザー川(the River Weser:ハーメルンを流れる川)に歩いていくと、ネズミたちも男の後にぞろぞろと続いていく。
川に着き、笛吹き男はが川の中に入っていくとネズミたちも後に続き、ネズミたちは全て溺れてしまったのだ。
おぉ、すごいな。
でも報酬を支払うのが惜しい。
住民はネズミが駆除され疫病から逃れられたのはいいが、なんと、いろいろな言い訳をして報酬を払うのを断った。
笛吹き男はこれには怒り立ち去ったが、
6月26日(聖ヨハネと聖パウロの日)に恐ろしい顔をして再び町を訪れる。
朝7時(正午とも言われる)、
赤い帽子に猟師の服の姿の男が通りで笛を吹くと、今度は4歳以上の子供たちが次々と集まってきた。
その中には市長の娘もいたが、
みな彼に続いて山の洞窟に入り、そのまま姿を消えてしまった。
これは大変だ!
子守をしていた娘が笛吹き男と子供達の後を付けたが途中で引き返し、急いで皆に知らせ、人々は子供たちを探すが一向に見つからない。
なんと130人の子供たちが一度に消えてしまったのだ。
一部の人が言うには、
その内3人の子供は戻って来た。
一人は目が見えず笛吹き男が去った場所が示せない。一人は口がきけず、でも方向は示すことが出来た。一人は途中でジャケットを取りに戻って来て災難を逃れた。
一部の人々は、子供たちがトランシルバニア(今のルーマニア中央部:ハーメルンからは直線距離で約1300km)に再び現れたと言う。
ハーメルンの住民はこの出来事を町の記録簿に記し、子供たちがいなくなった日を起点とした日付をで記録するようになった。
市庁舎には以下が刻まれた。
1284年にハーメルンから130人の子供たちが笛吹き男に山へと連れられて行った。
新しい門には(ラテン語で)以下が刻まれた。
「270年前に悪魔が130人の子供たちを連れ去った。その門は建てられてから272年経っていた」
1572年、市長は教会の窓にこの物語を描かせたが碑文はほとんど判読できなくなっている。
参考)
The Children of Hameln(グリム童話の原文)
ハーメルンの笛吹き男:原作と実話の流れ
この「ハーメルンの笛吹き男」は史実に基づくお話とされてます。
ハーメルンはドイツの1つの都市ですが、
その後多くの人がこの物語の真相を突き止めようと調べてまうs。
WIKIの英語版、ドイツ語版、日本語版を参照してまとめると、以下の流れのようですね。
14世紀初頭のステンドグラス
この物語に関連する最初の記述は14世紀初頭、
1300年頃にドイツのハーメルン教会に設置されたステンドグラスの窓。
日本語のWIKIにはこのステンドグラスの窓には以下が書かれていたと説明があります。
1284年にハーメルンの130人の子供が誘い出され丘近くにある処刑場でいなくなった
ただこのソースが不明で(リンク先が違うようで)、
日本語WIKIより詳しいと思われる「英語版WIKI」「ドイツ語版WIKI」の説明にある、後の17世紀初頭(1602-1603年)につくられた「ネズミ捕りの家」にある碑文のコピーを指しているようです。
14世紀初頭の年代記
また日本語WIKIには以下の説明もありますね。
ハーメルンの最古の記録は
「我らの子供達が連れ去られてから10年が過ぎた」
と年代記として述べられている
英語では「It is 10 years since our children left.」と紹介されるようですが、この説明も日本語WIKIだけで、ハーメルン市のHPも確認しましたが、どこにもその説明はないようです。
1994年に発行された本の中にその説明があり、日本語WIKIではそれをソースとしているようですが、この説明は英語版WIKI、ドイツ語WIKIにもないようで、この本の作者による何かしらの推測によるものかもしれません。
(実際に年代記がありその文言が記されていれば、物語の確定的な証拠の1つとしてハーメルン市のHPやその他色々な著作の中で紹介されるはずなので)
参考)以下の本の「パイドパイパーの再訪」の章に書かれている
Pied Piper Revisited | 14 | Education And The Market Place | Terence H
14世紀後半の合唱本
上で見たステンドグラスの窓に書かれていたであろう「1284年にハーメルンの130人の子供が誘い出され~」の説明は、その後、14世紀から17世紀にかけて紹介されていくことになるようですが、その最も古いものとしては、1384年頃のハーメルンにいた司祭「デカン・リューデ」(Decan Lude)が「目撃談が綴られたラテン語の詩を含む合唱本を所持していた」というもの。
ここにある目撃談と言うのは、
司祭「デカン・リューデ」の母親(または祖母)が、笛吹き男が子供たちを誘い出したのを見た、ということのようです。
ただ、この原本は17世紀に失われ
詳細は不明となり今は確認することが出来ないようで、今確認できる最古の記述とはされてないようです。
この合唱本の話を元にして話をつなげたのが、次の15世紀になるのでしょう。
15世紀の写本(原作)
15世紀(1440年から1450年頃の)には
リューネブルク(Lüneburg)という人の写本があり、これが今確認できる原作というか、物語の大元となるようです。
参考)
・Johannes de Lüde – Wikipedia
・Beschreibung von Lüneburg, Ratsbücherei, Theol.
その写本には以下の内容が書かれているようです。
<要約>
1284年、聖ヨハネと聖パウロの祝日(6月26日)に、ハーメルンの町で起こった。
ある三十歳ぐらいのハンサムで身なりの良い青年が町にやってきた。彼は銀のパイプを演奏し始め、その音を聞いた130人の子供たちは彼を追って、町の外の処刑場またはカルワリオ山へ行き姿を消した。
司祭ヨハン・フォン・リューデの母親は、子供たちが出発するのを見た。
「聖ヨハネと聖パウロの祝日」というのは、
4世紀に当時のローマ皇帝がキリスト教を捨て信者を迫害し始めた時、ヨハネとパウロの兄弟が命をかけて信仰を守ることを宣言した結果、処刑された日、とされています。
キリスト教徒としてはとても重要な日で、1284年6月26日も町の大人たち、ある程度年齢が高い子供たちの多くは教会に行いっていて、家にはそこに満たない子供たちが残っていた、という状況、その中で起きた物語ということになりますね。
(だから、笛吹き男に多くの子供がついていっても、止める人がそうそういないという状況だった)
また見て分かるように、
ネズミ退治の話はここには出てこない。
どうやら当時、
疫病は「悪い空気」により感染が広まると信じられていたようで、ネズミが犯人ということには注意が行ってなかった時代のようです。
ハーメルン市のHPでも説明があるように、「ハーメルンの笛吹き男」の話は、ネズミの部分は後付けになってるようですね。
16世紀:ネズミの登場と「普遍音楽」
その後、16世紀から17世紀に世界的に寒冷化し、ヨーロッパではペストが蔓延。その媒介者とされたのがネズミで、ここで当局公認のネズミ退治人なるものが出現します。
また1618年から1648年にかけてはドイツを舞台に「30年戦争」と呼ばれる、新教と旧教(プロテスタントとカトリック)の宗教的な対立や政治的な対立が起き、ドイツにあるハーメルンも占領されたり解放されたりと大変な状況に置かれていたようです。
こうした背景の中、ハーメルンの笛吹き男の物語も、笛吹き男を新教に見立てて「新教に付いていくと(改宗すると)子供がさらわれる」など、旧教のプロパガンダにも使われたのだとか。(だから笛吹き男は物語の中で悪魔性が強調された)
この「ハーメルンの笛吹き男」がよく知られるようになったのは、この30年戦争にも大きく影響を受けた一人「アタナシウス・キルヒャー」(1602 – 1680)の著作『普遍音楽』(1650年)から。
キルヒャーはカトリックの司祭であり、また多方面で活躍した偉大なる学者。
エジプト学、地理学、医学、宇宙論、音楽理論などその活躍も多岐にわたり、伝染病が微小生物により引き起こされることを実証的に示し予防法も提案するなど、当時のヨーロッパ学会における最高権威といわれる人物。
その著作『普遍音楽』(Musurgia universalis, sive ars magna consoni et dissoni)では、音を生み出す器官などを説明する「解剖学」から入り、音楽理論、そしてその第5巻「魔術」では音楽と神秘的な出来事の解説があり、その中で「ハーメルンの笛吹き男の話」が紹介され、音楽がどのように人々に影響を与えたかを説明するための1つの材料としたようです。
※)人も年齢を重ねると高い周波数の音が聞こえない(子供、若者には聞こえる)ということがあったり、動物にしか聞こえない音がある、みたいなことも書いてあったりするのかな
この『普遍音楽』は後にドイツ出身でありバロック時代の超有名なバッハ(1685- 1750)やヘンデル(1685 – 1759)など作曲家たちに多大な影響を与えたと言われていることから、当然この著書に含まれる「ハーメルンの笛吹き男の話」もそうした人たちが知ることになり、そこからドイツ国内において一般庶民や貴族などへと一気に話が広まったことになりそうです。
19世紀:グリム童話へ
そして時代は流れ19世紀。
1816年には、この物語を含む『ドイツ伝説集』が同じくドイツ人のグリム兄弟により出版され、そこからドイツ国外へも伝わり、日本でも知られるようになった、ということになるようです。
グリム童話ではそれまでの伝説をまとめたもので、グリム兄弟の兄(ヤーコプ・グリム)がまとめたものと言われているようです。
またタイトルも以下違いがあるようですね。
- グリム童話:「ハーメルンの子供達」(The Children of Hameln)
- ドイツ語:「ハーメルンのネズミ捕り」(der Rattenfänger von Hameln)
- 英語:「ハーメルンのまだら色の笛吹き男」(Pied Piper of Hamelin)
ちなみにドイツ語版WIKIでは、
この物語は「特にアメリカと日本で人気がある」とか書かれてます。
(そうだったんだ ^-^;))
ハーメルンの笛吹き男:真相は判明したか
史実に基づくと言われるこの物語。
ドイツのハーメルン市のHPでは「不可解な謎だけが残っている」と、今も真相は解明されてなく、不思議な話だけが伝わっているとしてます。
※)市の中世の市議会簿にも特に記録は残っていないようです
上で見た内容を少し振り返ると、
- 元々は教会のステンドグラスに「1284年、130人の子供が誘い出されていなくなった」という内容が書かれ(でもその後壊されたので残っていない)、
- それを紹介している記述がいくつかあり、その中で一番古いものでは「笛吹き男が子供たちを誘い出したのを見た」という目撃談があった(でも原本は失われている)
そうした中で最も古い記録は1284年から100年、200年と経過した15世紀に同様の話が紹介され、その後の16世紀以降にネズミの話がくっついて今にその話が伝わってます。
つまり、仮にこの物語が史実に基づいたものだとしても、分かっているのは
「1284年に130人の子供が消え去った」ということ。
世界的にも有名な話にもなり「史実に基づいていたとしたら」ということで多くの人がその後真相に迫ろうとするわけですが、あまりに昔の話であり、当時の記述の原本もないころから、現状は大体以下であろうとなってます。
- 子供たちが病気や飢餓で死亡したことを描いた:
笛吹き男は「死の象徴」として描かれたとするもの。 - 東方への移住した話し:
人口過密と経済状況、東ヨーロッパの植民地化などにより人々が移住した。
(子供達とは「町の子供」という扱いで市民のこと) - 宗教の対立を描いた:
ドイツの一部地域では丘で焚火して真夏を祝う伝統があったのだとか。子供たちが異教のものに連れられて修道院に強制的に入れられた、という説がある。 - 少年十字軍のこと:
1212年に起きたとされる少年十字軍。多くのものが途中で死んだり売り飛ばされたりと大変なことになった。でも年代が合わないのでこれは違うと言われている
この中で最も支持されているのが「東方への移住説」。
日本人では、関西大学名誉教授の浜本隆志さん「「笛吹き男」の正体」(2022年)では、東方植民地説を強く支持。
それ以前では浜本隆志さんも参考にしている一橋大学名誉教授の阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男──伝説とその世界」(1988年)でも当時ハーメルンに住む住民の姓との類似性から東方植民説を出しているようです。
仮に
「130人の子供たちが一斉にいなくなることが起き」「それが事故など悲劇的な事が理由だった」とした場合、あまりに当時の情報が少なすぎる、という少し不自然な感じがします。
ハーメルンの笛吹き男の話は、今でも真相が分かってない、ということで多くの人がその謎を今も追い続けてますが、真相が分かってないことの理由は、勿論当時の資料がないから。
仮に、130人の子供が殺人や災害など悲劇的な結末を迎えているなら、たとえハーメルンにその情報が残ってなくても、そうした悲劇的・衝撃的な話はすぐ近隣にも伝わることが考えられ、ハーメルンが当時商業的に一定に栄えていたとされることから、ハーメルンと交易のあった地域などへその話が伝わっていてもおかしくないとも思われます。
(悲劇的・衝撃的な話は噂となってすぐ伝わるものですので。日本の昔話も全国各地にその伝説が伝わってたりするのと同じ感覚。)
逆に言えば、ハーメルンにも情報が残ってない、近隣の地域にも情報がない、としたら、130人の子供が突然消えた話は、当時の人たちにとって衝撃的なこととはとらえられなかったこととも考えられます。
一番有力とされる説のように、
経済的な理由などから130人ぐらいの人が、まとまって移住していったぐらいの話なら、当時(中世ヨーロッパ)ではどの地域にもあり得る話とも考えられるし、わざわざ記録するようなことではなかった、でも、ハーメルンには少しだけ記録が残っていた、というのが考えられそう。
教会を中心に形成された町ということもあって、実際ハーメルンに元々記録が残っていたのが教会のステンドグラスで、その記述も最初に見たように、ちょっとした程度。(これも後付けみたいに見えますが)
1284年にハーメルンの130人の子供が誘い出され丘近くにある処刑場でいなくなった
「130人の子供」とは当時の市民を指し(ハーメルン市のHPでもこう説明している)、
また「処刑場」という表現は、移民は自由意志というより強制(そうせざるを得ない状況にあった)であり、その行先は辛い未来が予想される、といった悲哀の文として残していただけなのかも知れません。
ちなみにハーメルン市の当時の人口はどれほどかも見てみると、一番古い記録は1689年の「2,398人」。
西暦 | 住民の人口 |
---|---|
1689年 | 2,398 |
1825年 | 5,326 |
1905年 | 21,385 |
・・・ | ・・・ |
2018年 | 57,510 |
この物語が本当に1284年の起きたとすると、当時は1689年の人口「2,398人」よりも少ないことが普通に考えられ、1000人~1500人ぐらいだったかもしれません。
その内130人が短期間のうちに移住していったとすると、10人に1人がいなくなるということでもあり、(当時よくあったこととは言え)ハーメルン市としては結構大規模な移住にも見え、結果、町の記録として中心である教会だけには少なからず残った、というのはあり得そうですね。
英文学者・平倫子さんの、
この物語の考察も参考にしてますので最後にご紹介。
【論説】「ハーメルンの笛吹き」伝説と子ども(pdf:1987年)
まとめ
- 「ハーメルンの笛吹き男」は具体的な数字があり、史実に基づいていると考えられている
- 原作となるものは15世紀のリューネブルクの写本。
- それが元になり16世紀に「普遍音楽」の中で紹介され広まり、後にグリム童話で世界的に有名な話となった
- 物語の真相は未だ確定されず、「類似の地名」「類似の姓」から「東方への移住」説が有力視されている
1284年に起きたとされる「ハーメルンの笛吹き男」。
物語の真相としては「東方への移住」(東方植民地説)が有力のようですが、130人の「130」というのが少し中途半端な数字にも見え、また「13」が含まれることから宗教的な意味合いも含まれていたのでは、など思ってしまいそうです。
当時の経済状況や不安定な社会の中では、人が亡くなる、行方不明になる、ということも多かったりして、特にその年にハーメルンの町にとっては多く発生したりして(例えば100件とは言わなくても数十件は普通にあり)、それを不吉と考えて数字を130として、教会のステンドグラスに「この年は悲しい出来事が多かった」と記録したのでは、なども考えてしまいます。
あまりに昔のことで具体的に確認できる資料もないことから、「これが真相だったのか」と明らかにされることはないように思えますが、更に何かが見つかり「実はそうだったのか」と分かる日が来るのも楽しみですね。
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