民話「笠地蔵」は、貧しい老夫婦が売れ残りの笠を雪の中のお地蔵さんにかぶせると、後で地蔵が恩返しにくる、といった物語。
同じような物語に広く知られる「かさこじぞう」もありますが、ここでは笠地蔵のあらすじを簡単に見て、かさこじぞうとの違いや、なぜ大晦日だったのか、笠や地蔵の秘密までまとめてみました。
笠地蔵:あらすじを簡単に
まずは民話「笠地蔵」のあらすじを簡単に見ていきましょう
あらすじ
昔々ある所に、
貧しく暮らすお爺さんとお婆さんがいました。
お正月も次の日と迫った大晦日のこと。
明日は正月じゃというのに餅がない。
町で笠を売って買ってくるぞい。
おじいさんは背中に笠をかついで町へと行きますが、皆はお正月の買い出しで大忙し。
笠もまったく売れず、
陽傾き、今にも雪が降りそうです。
仕方がない。
ばあさんには悪いがそろそろ帰るか
やがて雪も降りだし吹雪へと変わります。
おじいさんは手拭いを頭に被り家路を急ぎますが、道端のわきに立つ6体のお地蔵さんが目に入ります。
この雪の中、さぞ寒かろうと、お爺さんはお地蔵さんの頭や肩の雪を払い、売れずに持ち帰った笠を1つ1つお地蔵さんにかぶせて行きますが、最後のお地蔵さんの分がない!
お地蔵さん、すまんのう。
もう笠がないんじゃ。
わしの手拭いで我慢しておくれ。
お爺さんは頭にかぶっていた手拭いをお地蔵さんの頭に巻き、吹雪の中を家へと急ぐのでした。
家に着くと、雪まみれになってるお爺さんに驚くお婆さん。
おかえり。餅は買えたかえ...
あれあれ、そんなに雪まみれになって。
おじいさんが、笠が売れなかったこと、途中お地蔵さんに笠を全部あげてしまったことを話しすと、おばあさんは怒るどころか暖かく微笑みます。
それは良いことしましたのう。
さすがわしのじいさんじゃ。
二人はお正月の準備ができませんでしたが、粗末な食事をして床につきました。
その夜のこと。
二人が寝ていると何やら外で音します。
ドシン...また、ドシン...。
こんな夜中に何の音だと不思議に思ったおじいさん。恐る恐る戸を開けてみると、なんとそこには米俵や野菜に魚、さらに金銀が一杯置いてあるではないですか。
驚く二人が外を見渡すと、雪降る中を去っていく笠をかぶったお地蔵さんたち。その最後のお地蔵さんは頭にお爺さんの手拭いを巻いてます。
ばあさん、ばあさん!
あれはわしが笠を被せた地蔵様たちじゃ!
こんなに沢山お礼を持ってきなさった。
こりゃたまげたわい。
おじいさん、おばあさんは驚きつつも「ほんに、ありがたいことじゃ」と何度も手をあわせ、幸せなお正月を迎えたとさ。
伝承による違い
この笠地蔵の物語は、いろいろな地方で伝承されてきたお話し。
お地蔵さんたちが「じいさんの家はどこじゃ」と言いながらやってくる、というストーリーで覚えている人も多いと思います。(それは「かさこじぞう」)
民話として伝わる笠地蔵では、登場するお地蔵さんの数は6体が多いようですが、1体の場合や12体といった場合もあり、7体(七福神)という場合もあるようです。
おじいさんは最後のお地蔵さんに手拭いをかけてあげたりしますが、自分の笠を被せた、となってたりする場合もありますね。(私はこのパターンで記憶していた)
またお地蔵さんが持ってきたものでは、
一寸法師に出て来るような「打ち出の小槌」や、中には「子供」というお話もあるようです。(この場合、打ち出の小槌はものを生み出す象徴であり、子供は新しい命の象徴など)
笠地蔵:かさこじぞうとの違い
この笠地蔵の物語、とても良く似たタイトルで「かさこじぞう」があります。
何が違うのか気になりますが、
「かさこじぞう」と「笠地蔵」の話は基本的に同じ物語を指してます。
ただ「かさこじぞう」は昭和52年度(1977年度)から小学校2年の教科書に掲載され、児童文学界の大御所・岩崎京子さんが広く地域に伝わる笠地蔵の民話を再構築して創作した作品であり、さらに小学校2年生向けとなることから、原話の「笠地蔵」との違いも出て来る、ということになるでしょう。
※)「かさこ」とは「笠」のこと。
物語の中でお爺さんが笠を表現するときに使ってます。お餅のことを「もちこ」と表現されているのに同じ。(「にゃんこ」や「わんこ」みたいなものでしょうか)
細かく丁寧な描写
笠地蔵との一番の違いと言えば、
子供向けによく理解できるよう「細かく丁寧な描写」がされていること。
お爺さんがお地蔵さまに笠を被せるシーンが特徴的ですが、原話では
「寒かろうと思って傘を被せた」
ぐらいのところが、
「お堂もなく、木の影もない、吹き曝しの野っぱら」
というお地蔵さんを取り巻く状況を丁寧に描写してます。
また、
「頬にしみをこさえている」
「鼻からツララをさげている」
など、お地蔵さまたちのこまやかな描写がされたり、おじいさんがお地蔵様を「なでた」など、おじいさんの行動も細かく描写されてますね。
餅つきの真似事をする二人
また、お爺さんが家に帰った後も細かくお話がされてます。
事実を淡々と語るといった民話性が低くなりそうなところですが、お爺さんが笠が売れずに家に帰った後、「二人で餅つきの真似事して楽しいひと時を過ごす姿」が描かれてます。
昔の大みそか(祖先の霊やお正月様をお迎えするための大切な準備の日)といった位置づけからすると、こうした真似事して楽しんでいる場合ではなさそうですが、おじいさん、おばあさんの、貧しくも暖かな心を持った人たち、というというところが強く描かれてます。
お地蔵さんの擬人化
また他にも特徴的なのが、お地蔵様の擬人化。
お地蔵様を「6人」と、人として表現していたり、真夜中にお地蔵さんが来る時、
「じょいやさ、じょいやさ」
と言いながらそりを引いてくるとか、
「じさまのうちはどこだ」
「ばさまのうちはどこだ」
など歌いながら来るとか、
爺さんもそれに答えて、
「ここだ、ここだ」
と言うなど、お地蔵さんの擬人化も原話とは異なる特徴になるようです。
おじいさん、おばあさんに焦点を当てたお話し
小学2年生向けの話として教科書にものったことから広く知れ渡るこの「かさこじぞう」のお話し。
その絵本の解説に作者の岩崎京子さん自身が「老夫婦が心を寄せ合い信頼し合う姿には、ほのぼのと胸があたたまるようだ」と書いているようで、昔から伝わる笠地蔵の話というよりは「かさこじぞう」は、おじいさん、おばあさんに焦点を当て直した物語となっている、ということも言えそうです。
昭和52年度(1977年度)から小学校2年の教科書に掲載されたことから、2024年時点で50代以前の方は、小学校の2年で「かさこじぞう」を学校の教科書で読んでいる可能性も大きそうですね。
実際ネットで笠地蔵のあらすじなどをいくつか見てみると、お地蔵さんが「ヨッコラショ」みたいな掛け声を上げたり「爺さんの家はどこじゃ」と声をあげてやってくる内容が多いようです。
元々の民話の「笠地蔵」のお話のつもりが、「かさこじぞう」の内容で記憶していて、それが一般的になってきている、ともとれそうですね。
- 参考)全文と考察はこちら
- かさこじぞう – 岩崎京子 解説(寺田守:pdf)
- かさこじぞう論 – 岩崎京子の再話に見る物語性(小山惠美子:pdf)
笠地蔵:笠や地蔵の秘密
この笠地蔵の物語、いろいろな見方/解釈がされると思いますが、その中でも「なるほど~」と思った解釈をご紹介です。
児童文学研究者の斎藤寿始子(さいとう・としこ)さんによるものですが、物語のポイントともなる、
- 「大みそかとお正月」の設定の意味
- 「お爺さんの行動」の意味するもの
- 「笠」の意味や位置づけ
- 「お地蔵さん」の正体
など非常に興味深い考察をされてます。
詳しくはこちら)
笠地蔵の背景 – 斎藤 寿始子(大谷大学学術情報リポジトリ)
以降はこの「笠地蔵の背景」を元に要点をまとめたものですが、まずは笠地蔵の設定となる「大みそか」と「お正月」についてから見てみましょう。
大みそかとお正月の意味
今では単に年末と新年という感じのものにもなっている「大みそか」と「お正月」ですが、実は昔は今の感覚よりはるかに重要な日とされていたようです。
大みそかは夏のお盆に同じく、祖霊(先祖の霊など)やお正月さまといった神様をお迎えするとても大切な日で、そのため大掃除をして穢れ(けがれ)を取り家の中を清め、神飾りなどの準備をするものだったのだとか。
年が明けてお正月には、お迎えされた祖霊、お正月様が福を授ける、だから、余計にお正月に向けた大晦日の準備は昔の人にとってはとても大切なもの。
笠地蔵の話では、お爺さんがお正月を迎えるためにお餅などを買いに出かけますが、これは単に「お正月にお餅でもないと寂しいよね」というようなものではなく、その家にとって祖霊やお正月様を迎えるための非常に重要な任務となるようです。
でも実際にはお爺さんはその任務は果たせず、結果としておじいさん、おばあさんは、祖霊やお正月さまがお迎えできない、といった非常事態に陥ります。
そして二人は何もできないまま床につくことになりますが、とてもお餅をつく真似事をして楽しんでいられるような状況ではなかったんですね。
(どうしよう、どうしよう、大変なことになった、みたいな感じが本当かも)
お地蔵様と笠の正体
またこの物語の重要なポイントととなる「お地蔵さま」と「笠」。
よく墓地の入り口などにある「六体のお地蔵様」は、仏教の六道思想(天道、人間道、畜生道、地獄道など六つの世界を輪廻転生するといった考え)ともつながり、この六道の衆生(すべてのきとし生けるもの)を救済するために現わされた姿であり、現世と死者の国(墓地)、つまり生と死の境界に立ち、苦を救う存在。
「笠」は日本書紀にも見られるように、古くから穢れをよけるためのものとしても使われ、また天狗や鬼の姿を隠す「隠れ蓑笠」のように姿を隠す働きをするものであり、神が携える持ち物の1つとされて来たようです。
お爺さんとお婆さんは貧しい生活をしていた。でも決して怠け者ではなくそれまで真面目に働き生き抜いてきたことが想像され、それでも貧しかったのは祖先のお墓にはあまりお参りしないなど、祖霊からよく思われてなかったり何らかの障りを受けていたことを象徴していることも考えられそう。
お地蔵さんに笠をかぶせることで、お爺さんが神へ慈悲の心を示し、それによりお地蔵さんはその本来の働きである苦を(障り)をお爺さんから取り除く。
また同時に被せられた笠は、お地蔵さんが引き受けている多くの障りを鎮める働きをするとともに、神様の持ち物である笠を手に入れたお地蔵さんは動けるようにもなる。
結果として、お地蔵さんは正月神としておじいさん、おばあさんの元へ訪れ福を授けた。
これは数ある中の1つの解釈になると思いますが、この物語に置いて、その設定である「大晦日とお正月」は絶対に必要なものであり、また、おじいさん、おばあさん、お地蔵さま、笠が象徴する意味を考えると、この物語、すごく奥が深いな、という感じですよね。
まとめ
- 「笠地蔵」は、お爺さんが大晦日の雪の日にお地蔵さまに笠を被せ、お地蔵さまがお正月に必要なものや金銀をもってお礼に来るお話し。
- 「かさこじぞう」も基本同じだが、民話を再構成して小学生向けに詳しい描写を加えたお話し
- 2つの違いは、笠地蔵が民話的に割とあっさりした内容であるのに対し、かさこじぞうは、お爺さんおばあさんに焦点を当て、より詳しい描写が加わり、お地蔵さんも擬人化されたお話になっている
この笠地蔵は、なぜ大晦日なのか、なぜ笠がでてくるのか、など、話しの中では必然的な見えるところを深く考えていくと、古くは仏教の六道思想につながったり、神話から伝わる笠の役割などが取り入れられていたり、短いお話しながら実はすごく奥が深い物語になってるようです。
だから人々の記憶にも残りやすく、今に受け継がれてきた、ということも言えそうですね。
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